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カザフスタンにHICARE幹事等を派遣

これまでのカザフスタンからの研修生受入や医師等のカザフスタン派遣の効果を検証するとともに,研修生とのネットワークを再構築し,今後のHICAREの支援のあり方について検討することを目的に,有田幹事ほか2人をカザフスタンに派遣しました。

期間:

平成17(2005)年9月26日(月)~10月3日(月)

構成員:

団長 有田 健一 HICARE幹事(広島赤十字・原爆病院呼吸器科部長)
   事務局2名

訪問先(訪問日程順):

アスタナ
  在カザフスタン日本国大使館, カザフスタン政府保健省
  カザフスタン国立医科大学 ほか
ウスチカメノゴルスク
  東カザフスタン州保健局,ウスチカメノゴルスク腫瘍センター ほか
セミパラチンスク
  セミパラチンスク市役所,セミパラチンスク市立診断センター
  カザフスタン放射線医学環境研究所,セミパラチンスク腫瘍センター
  セミパラチンスク医科大学附属病院 
  核実験場跡地

研修の効果検証:

 これまでHICAREで受け入れた研修生を対象に,現在の医療活動へのHICARE研修の貢献度などを調査しました。
 調査結果等の詳細につきましては,下記PDFファイルをご覧ください。

(PDF: 16KB)

所感:

はじめに
 カザフスタン共和国はシルクロードの真ん中に位置する広大な資源大国である。この国では,ソ連時代に行われた核実験により多くの被爆者が発生し,現在も後遺症で苦しんでいる。これに対してHICAREは1992年以来,セミパラチンスク市周辺地域の医療従事者27名を広島に招いて広島での研究成果を研修してもらい,一方では広島の医師23名を同地域に派遣して被爆者医療の支援を行ってきた。
 今回,私たちは,広島での研修の実効性を検証する目的で,平成17(2005)年9月26日から約1週間,カザフスタン共和国のアスタナ,ウスチカメノゴルスク,セミパラチンスクなどの諸都市を訪問し研修成果の確認を行った。

ディカンバエヴァ副大臣(右から4番目),関係職員と(於:カザフスタン政府保健省)

アスタナ~ウスチカメノゴルスク
 首都アスタナでは,日本国大使館,カザフスタン政府保健省,カザフスタン国立医科大学を訪問した。日本国大使館では角崎大使に面会し,HICAREのセミパラチンスクへの支援活動などを説明した。カザフスタン政府保健省では,ディカンバエヴァ副大臣と会談した。同副大臣から,広島でのHICARE研修生が重要な役割を担っていること,今後はセミパラチンスク周辺の被爆者のデーターベース構築や補償の基準策定に力を入れたいこと,これらへの日本の協力が必要であるとの話があった。その後カザフスタン国立医科大学のローゼンソン教授の計らいで,同地の主要な医師に会うことができた。
東カザフスタン州の州都であるウスチカメノゴルスクでは,東カザフスタン州保健局のアイグル次官に面会した。彼女は以前JICAの研修で広島を訪れたこともあり,私たちの今回の訪問に対する協力依頼にも快く応じてくれた。ウスチカメノゴルスク癌センターのジョンマルタ先生の案内により,被曝者関連医療機関や施設を視察した。
セミパラチンスク
 9月29日にセミパラチンスク市に到着した。セミパラチンスク市での私たちの活動を支援してくれたのがサガダット先生である。同市内での全ての予定はサガダット先生により立案計画されていた。彼女は日本人と変わらぬ風貌のセミパラチンスク市立診断センターの内科医であるが,彼女の勤務する同診断センターには故高木昌彦先生を記念する「高木記念館」があった。入り口を入ると「ふるさと」の曲が流れ,亡くなった高木先生が使われていた日常品が展示され,先生の写真が整然と並んでいた。先生の写真の上には日本語で「心の触れ合い」と記されていた。先生は定年後この地に住み,奥様が広島での被爆者であったこともあって当地の被爆者調査や医療援助をしながら2002年に客死されたのだが,70歳をすぎてカザフ語に取り組み,カザフスタンの人々から愛され続けたという。カザフスタンの人々に注がれた先生の愛情は深く大きく,そしてそれを受けたこの国の人々の先生に対する愛と慕う気持ちがこの「記念館」という形で残されていた。備え付けられた署名録に一言書きながら,高木先生に対してもカザフスタンの人々に対しても,それぞれの純粋さと優しさ,使命感とそれを受け取る素直さを思い,私は涙を流さずにはおれなかった。
 午後,セミパラチンスク市長オマロフ氏を表敬訪問した。市長夫人がHICARE研修生であったこと,広島市長との交流,JICA事業の終了を受けての今後のHICAREの取り組みなど話題は広範囲に及んだ。マスコミも多数駆けつけ,私たちは取材攻勢にあった。
 さらに,セミパラチンスク医科大学,セミパラチンスク医科大学病院,セミパラチンスク腫瘍センター,放射線・環境研究所などで,被爆者医療のリーダー的な諸先生に面会し,今後のHICAREに対する要望や期待を聞くことができたのは有益だった。

HICARE研修生,関係者と(セミパラチンスク)

HICARE研修生との交流
 HICARE研修生とのネットワークを再構築したいという目的をかなえるために,9月30日,研修生との交流会を開催した。7名の研修生に加えて,セミパラチンスク医科大学病院イジン副院長,セミパラチンスク腫瘍センター副所長タスボラット先生など総勢14名が集まり,親しく懇談した。研修生は広島滞在中に覚えた日本の歌を披露し,出席者は肩を組んで合唱するなど,心温まる交流となった。
ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト
 カザフスタン滞在中,私たちの訪問先で通訳として私たちを支えてくれたのは,山陽女学園高等部(廿日市市)の元留学生達である。山陽女学園は,広島の市民グループ「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト(ヒロセミ・プロジェクト)」と協力して留学生を受け入れており,現在までに11人の高校生を招へいしている。
 日本大使館の角崎大使からも,「この大使館にもヒロセミ・プロジェクトにより山陽女学園で学んだ人が一人いますよ」と教えていただいた。セミパラチンスク市でお世話になった日本語通訳のアセリさんもやはりヒロセミ・プロジェクトの留学生であり,広島の市民グループによる支援活動が着実に根をおろしていることを実感した。
おわりに
 カザフスタン滞在中,私達は日本に対する強い期待とあこがれを感じた。点ではなく線や面として,お客さんとしてではなく共同研究者である仲間として,幅広い人的交流を継続し,カザフスタンの人々のニーズにあった支援を考えていくことが今後HICAREに課せられた使命である。カザフスタンは今,油田からの利益で急速な経済成長の中にある。日本が急速な経済成長の中で,ともすれば物質文化に傾注し精神文化や人間性を二の次とした経験だけは,カザフスタンの人々にはまねをしてもらいたくないし,純粋で素直な,そしてやさしい国民性を大切にしてもらいたいと思う。この国との交流は日本の心の再洗浄にもつながるように感じた8日間であった。